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《2014.12月−1》

方針転換の重さを感じさせた
【地面と床 (チェルフィッチュ)】

作・演出:岡田利規
6日(土)14:05〜16:00 山口情報芸術センター スタジオA 3,000円


 現状への溢れかえる苛立ちとそれを放置できない思いが岡田利規に「演劇というハードウェアの有効性を現代化すること」への方針転換を促した。その結果生まれた岡田利規の転換点となるこの舞台は、表現に多くのチャレンジは見られるがまだまだ模索中という印象は免れず、方針転換の重さを感じさせた。

 衰退しかかっていて戦争が始まりそうな気配の、そう遠くない未来の日本。就職が決まった次男が、母が幽霊として徘徊している母の墓前に報告に来る。妊娠している長男の妻は、幽霊にも死者にこだわる次男にも敵愾心を持っている。ひきこもりの女が現れて、もはや誰にも伝わらない日本語をあてどなくまくしたてる。

 幸いなことに、チェルフィッチュの舞台はけっこう観ている。この5年ほどの間では、「わたしたちは無傷な別人である」(2010)、「ゾウガメのソニックライフ」(2011)、「現在地」(2012)、「女優の魂」(2012) を観ている。天野天街演出の転回社公演「フリーターム」(2012)も熊本で観た。2011年には山口情報芸術センターでの岡田利規のワークショップにも参加した。
 「地面と床」は、ヨーロッパと日本の10の劇場の共同製作で2013年春にクリエーションされ、5月にベルギーのブリュッセルでのクンステンフェスティバルデザールで初演。その後の欧州ツアーを経て、9月に京都、12月に横浜で上演されたが、観られなかった。もう観る機会がないとあきらめていたのだが、今回の山口情報芸術センターでの公演を観られたのでよかった。

 平土間の上に作られた高さ1メートルほどの大きな台の上に、台よりもかなり幅が狭い高さ30センチほどの舞台が作られ、その上に厚さ数センチの板が置かれて舞台面となっている。舞台奥の中央に横長の大きな十字型のボードがあって、その幅広なところに英語と中国語でセリフの翻訳が映し出される。そこには時に日本語も混じる。舞台面上の上手に、ルンバ状の光るものが置いてある。舞台面の上手に大きな鏡が立ててあるが、中央よりやや右手のわたしの席からは鏡面はほとんど見えない。
 俳優たちは下手から登場して下手に退場する。音楽劇であるこの舞台のサンガツによる音楽は録音で、俳優たちのセリフはマイクを通して語られる。全6場で、登場人物は男性2人・女性3人の5人で、シンプルな衣装は役ごとに色分けされている。照明は総体に暗い。

 どうやら日本は中国の属国になっているらしい。長男が見た中国人兵士の夢の話、日本語がほとんど使われていないこと、そして字幕が英語と中国語であることから、そう推測できる。
 そんな状況でさらに日本を壊滅させるような戦争が起こったらどうするか。次男は日本を守るために戦うと言うが、長男の妻は子どものためなら日本を捨てて外国に逃げると言って、互いに主張しあって対立する。長男の妻は死者に目を向けてもらいたい母の幽霊とも対立する。ひきこもりの女が日本語の有用性について滔々としゃべりまくる。
 そのような対立の構造がはっきりと見えて、抽象的な言葉で主張し議論するこの舞台は、作者の危機意識を直截に反映している。震災や原発事故からの復旧は遅々として進まないのに、いつまた災害が起こるかわからない。少子高齢化と格差拡大で経済力は衰え弱者は切り捨てられる。近隣諸国からの強まる圧力に抵抗できずに、国権は侵され安全は確保されず、日本語をはじめとした日本人のアイデンティティが奪われてしまう。そういう最悪のシナリオが自分たちや子どもたちに現実になるかもしれない。そのような現状へのいらだちがこの舞台の基調にはある。

 岡田利規はこの作品から「演劇の新しい形式を探求することから、演劇というハードウェア―この、古来からある文化的テクノロジー―の有効性を現代化すること」に転換したという。
 これまでは自らのことも含めて客観的に三人称で語って描写されることが多かった。しかしこの舞台では、死者と生者の利害を対立させて一人称で直截な主張が語られる。死者と生者の利害は対立はするが主張はいずれもごもっともで、作者が言わずにはいられない言葉が登場人物の口を借りてそのまま噴出したという印象だが、こういうことはかってなかった。それは、「演劇というハードウェアの有効性を現代化する」ことへの方針転換のためだろうか。
 普通は排除されるノイズの中にものすごく豊かな情報があることを発見して具現化してみせた「三月の5日間」以降、岡田利規は極私的な関心からの模索・試行錯誤を揺れ動き浮遊しながらつづけている。ある公演を見て“ああ、こういうことか”とわかったような気になっていると、次作ではみごとに置いてきぼりを喰らう、という繰り返しだ。だがそれらの作品はあくまでも「三月の5日間」のバリエーションであって、それを超える発見や具現化がなされてきたとはいえない。
 そういう面では「演劇というハードウェアの有効性を現代化する」ことに方針転換したこの舞台は重要な転換点になるはずだ。非常に理性的な作りで感動よりも知的感興を狙ったこれまでの舞台に比べて、この舞台では確かに観客へのエモーションを意識した作りになっている。「有効性」とは観客のエモーションを引き起こすことで、そのために音楽劇という形態や幽霊の登場などいくつかの新機軸が取り入れられたのだろうと考えた。

 作者は、父を亡くしたばかりの喪失感からだろう、幽霊を身近なものに感じた結果“夢幻能”を意識した。「舞台という時間/場所を音楽と劇とでシェアすること」というここでの音楽劇の定義は、“能”がやっていることだ。それはいいがこの舞台、音楽劇としてみるなら成功してはいない。「音楽と劇とでシェアする」ように見せかけながら、そう簡単にはシェアできないことをアピールする結果になっている。
 音楽劇だといっても俳優が歌うわけではない。ここでの音楽は、俳優の個性に合わせたあて書きの曲が舞台の進行とともに重なり合ったりぶつかり合うことを狙っていると思ったが、実際の舞台では、意図的に外したり無音の時間を長く取ったりしていて俳優のしゃべりや動作に合わせることはほとんどない。
 俳優たちは歌わないけれどマイクはつける。録音された音楽の音と俳優の声との相性を考えてのことだろうが、マイクを通した声は均一化されてやや無機的で、却って音楽と声を遊離させていた。マイクを通した声は身体の動きとの間でも緊張を生まない。だからセリフを言いながらの動きは味気ないものになってしまって、無音で静止したシーンでは間が持たずに空疎になってしまう。向こう向きにうずくまって言うセリフが異様なまでにはっきりと聞こえて、言葉と動作が分離してしまった違和感があった。
 どうやらこの劇団の俳優の身体性は、三人称で語ることを前提にして成立している。語られる言葉と身体との乖離が緊張を生んできた。一人称で語られる言葉と身体との間では緊張を生み出しにくい。そこのところはまだ解決されてはいなかった。

 岡田利規がインタビューなどで前もって語ったことをそのまま信じてしまった自分がバカだったのか。でも、そういうことばかりでもなさそうだ。
 観ていてギョッとしたのが、母の幽霊を睨む長男の妻の眼の異様な輝き。あとで思い出すシーンが2つ。1つは、引きこもりの女性が長々と日本語について語るシーンでは、追いつかない字幕に八つ当たりする女性の心情は伝わってくる。もう1つは、ラスト近く、次男がルンバ状の黄泉の国への入り口の前で延々と踊るシーン。“神楽”の舞いを思い出させた。
 明らかに方針転換はされている。表現方法の転換と深化が若干遅れるのはやむを得まい。

 終演後、「サンガツ・ライブコンサート」が約1時間あって楽しめた。
 この舞台は山口では1ステージ。かなり空席があった。


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