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《2014.12月−8》

負け組を揶揄する冷たい姿勢
【博多千年まんじゅうの旅/ななつ星号の冒険 (ギンギラ太陽’s)】

作・演出:大塚ムネト
22日(月)14:10〜15:55 JR九州ホール 2,000円


 久しぶりに観たギンギラ太陽’sの舞台はゴチャゴチャと雑駁で、舞台の質は明らかに低下していた。勝ち組を持ち上げ負け組を揶揄する姿勢に疑問を感じた。

 「博多千年まんじゅうの旅」と「ななつ星号の冒険」の2本立て公演だが、上演時間1時間強の「博多千年まんじゅうの旅」の前半と後半の間に、上演時間30分弱の「ななつ星号の冒険」を入れて連続上演するという形だ。
 「博多千年まんじゅうの旅」は、博多菓子の賞味期限を奪おうとする悪の手から菓子たちを助けようと現代へタイムスリップしてきた聖一国師の悪党との戦いを描く。
 「ななつ星号の冒険」は、“豪華列車ななつ星号”が明治時代や福岡空襲時の博多駅にタイムスリップしてJRの鉄道の歴史をたどる。

 かって感想に、“ギンギラ太陽’sは西鉄の宣伝別働隊だ”と書いたことがあり、“博多駅周辺が開発されればギンギラ太陽’sはJRの宣伝別働隊になるだろう”と毒づいたことがあった。その予想がみごとに的中した。
 「ななつ星号の冒険」は、昨年“博多駅移転50周年”を記念して1度だけ上演された舞台で、その上演が縁となってJR九州ホールとの提携公演が決まったという。JRがスポンサーとなって作ったJRの宣伝劇を、有料のこの公演で上演する感覚がわからない。「天神開拓史」で西鉄や岩田屋をよいしょするのとはわけが違う。いくら観客からの要望があったとはいえ、それはやってはならないことだ。
 ダイエーとイオンとのここ2、30年の力関係の経緯をたどった2分ほどの超短編が途中に挿入されている。その事実は誰でも知っていることだが、この舞台ではダイエーを揶揄した描き方をしていた。ダイエー華やかなりしころには持ち上げて連携しておいて、落ち目になったら揶揄するとは。負け組になった恩人に後足で砂をかけるのかと、その何か狂っているとしか思えない冷たい仕打ちにガックリきた。

 ギンギラ太陽’sのそんな基本姿勢への不快感・不信感がこの感想にマイナスのバイアスをかけるが、そこを抜きにして考えても雑駁さが目立った舞台だった。
 「博多千年まんじゅうの旅」はストーリー展開がスッキリせず歯切れが悪い。対立軸も戦いの状況もどこかあやふやで、話がループしているようなところもある。悪に対抗する力はバラバラで協働しない。ラストでひよこ侍を出して解決してしまうのなら、何のために聖一国師はタイムスリップしてきたの?
 ギンギラ太陽’sが、固定的な出演者による公演をやめて毎回出演者を集めて公演する新体制に移行したのは2011年末かな。今回、新体制になってから初めてこの劇団の舞台を観るが、キレのよかったかってのギンギラスタイルは崩壊していた。
 女優は、新体制になって今回初めてかってのメンバー上田裕子が出演し、常連となった宗真樹子もいるが十分とはとてもいえない。男性にはそれなりの存在感があって普通に決められる俳優は大塚ムネトだけだ。現コンドルズのぎたろーのような盛り上げキャラもいない。それでまともなキャスティングが組めるわけがない。そのうえ今回の舞台では進行もギクシャクしていてピリッとせず、緊張感の欠如を露呈していた。

 そのような何とも不満な舞台の質は、前々段で書いたこの劇団の姿勢からきている。高い表現を目指すような創作意欲の減退は著しくて、このところ一晩物の新作はなく新しいキャラも生み出せていない。来年6月はまた「天神開拓史」だ。今回は初めての劇場での公演なので久々に観たが、こんなレベルだとこの劇団の公演を観る価値はない。
 この舞台は、今回から新しく始まる“博多千年モノ語りシリーズ”の第1弾で、きょうとあすで4ステージ。満席だった。


★大塚ムネト氏のコメントがCorich!に書かれましたので、以下に再掲します★

ギンギラ太陽’s主宰の大塚ムネトです。

「福岡演劇の今」を読みました。残念ですが一方的な思いこみと間違いがある文章でした。ぜひ、このページを読んだ方は「福岡演劇の今」に目を通してください。その上で、再度ボクの文章を読んでもらえればと思います。

なお、これは、投稿者へのコメントというだけではありません。「一方的な文章」には、思いこみと間違いが多いので、ギンギラを一方的な文章で誤解されないように、ギンギラを初めて知った方に向けても書いています。以下、「福岡演劇の今」よりの引用部分を「>」と表記し、事実を書いていきます。長文ですが、ご容赦ください。

>JRがスポンサーとなって作ったJRの宣伝劇を、有料のこの公演で上演する感覚がわ
>からない。

確かに依頼を受けて作った作品ですが、「もともと九州の鉄道が民間の心意気で生まれた私鉄だった」「明治時代に、幻のななつ星号の計画があった」と言う2つの事実は、取材した自分が感動し、地元のお客さまに知って欲しいと思ったモノ語りです。それにチラシや告知でも「イベントで制作した作品」と最初から発表しています。だまして見せたわけではありません。

>「天神開拓史」で西鉄や岩田屋をよいしょするのとはわけが違う。

これこそ、この投稿者の一方的な考えですので、そのまま受け取らないで欲しいと思います。赤字で苦戦した事、商売の戦略を誤って失敗した事、何より、街のために頑張った事などをキチンと描いています。格好悪いところも含めて、全部キチンと関係者に取材をして書いています。「よいしょ」と言う言葉のイメージで、作品を矮小化しようとする投稿者の悪意としか思えませんので、そのまま受け取らないでください。ぜひ「天神開拓史」をネットで検索して、ほかの方が書いている感想なども読んでもらえればと思います。もし観た知り合いがいれば、その方に感想を聞いて欲しいです。

>いくら観客からの要望があったとはいえ、それはやってはならないことだ。

要望などありません。本公演に関しては、ボクが作りたいと思ったモノ語りを作っています。この投稿者は、自分の文章を思いこみで書いているのがよくわかります。

>ダイエー華やかなりしころには持ち上げて連携しておいて、落ち目になったら揶揄する
>とは。負け組になった恩人に後足で砂をかけるのかと、その何か狂っているとしか思え
>ない冷たい仕打ちにガックリきた。

これもキチンと調べないで思いこみで書いています。ギンギラはダイエー華やかなりし時代のドーム公演で、「ダイエーが地元のユニードを飲み込む話」を生々しく書いています。当時大阪から来たダイエー関係者は、「今回は悪役キャラだけど本当の事だから書いて良いよ」と笑って許してくれていました。繰り返し書きますが、「良いところと悪いところ」を工夫してエンタメ化しています。

なにより声を大にして言いたいのは、一番事情をわかっている地元のお客さまが「ただよいしょ」するだけの安易な作品を、支持するはずがないということです。お客さまに対して失礼です。

それと「狂っているとしか思えない」と言う表現は、わざと刺激的に書こうとしているようにしか思えません。「狂っている」なんて書かれて、相手がどんな気持ちになるか想像できないんでしょうか?言葉の暴力だと思います。

>女優は、新体制になって今回初めてかってのメンバー上田裕子が出演し

初めてではありません。キャナルでの公演に出演しています。さらに書くと、中村雪絵、三坂恵美など、ほかにも昔からのメンバー(より正確に書くとギンギラ後期からのメンバー)は出演しています。投稿者がキチンと情報を調べることなく、一方的な事を書いているのが、これでもよくわかります。

>男性にはそれなりの存在感があって普通に決められる俳優は大塚ムネトだけだ。

笑いが全てではありませんが、会場の反応としてわかりやすい例なので書きます。会場を何度も笑いで包んでいたのは、ボクだけではありませんよ。それぞれのキャストがしっかり役割を果たしてくれていました。「大塚だけだ」と、根拠と技術的な検証もない一方的な書き方です。ボクは演出もしています。「お客さまに見てもらえるライン」まで、しっかり頑張ってもらって本番を迎えています。

>そのうえ今回の舞台では進行もギクシャクしていてピリッとせず、
>緊張感の欠如を露呈していた。

初日の昼の関しては、転換が上手くいかず、芝居が止まりかけた場面があり、大変申し訳なく思っています。それを「緊張感の欠如」といわれても、初日の昼に関しては、言い訳は出来ません。これについては、スタッフワークのあり方をしっかり再検証し、同じ失敗をしないように対策を取ります。この一点だけに関しては、指摘を受け止め、お詫びします。

>高い表現を目指すような創作意欲の減退は著しくて、このところ一晩物の新作はなく
>新しいキャラも生み出せていない。

「創作意欲の減退が著しい」「新作はなく新しいキャラも生み出せていない」と断言されるのはなぜでしょうか?演劇とは、毎回決まった形で新作を書かなければいけないんですか?表現者の自由だと思います。前回の「ギンギラ鉄道の夜」は新作でした。今回も「ななつ星」以外は新作です。新キャラも続々登場しています。演劇以外でも、様々な創作活動をしています。

>来年6月はまた「天神開拓史」だ。今回は初めての劇場での公演なので久々に観たが、
>こんなレベルだとこの劇団の公演を観る価値はない。

「また開拓史だ」と書いていますが、やる理由は「来年が戦後70年」だからです。戦争を描いた作品を戦後70年の節目に、モノ語りの舞台となった天神のホールで、福岡大空襲があった6月19日に上演する。これが上演する理由です。終わりの挨拶でもキチンと趣旨をお話ししました。

前回上演したのは2008年です。今度の上演までの間に10作以上の別作品を上演しています。それでも「また」と書かれてしまう理由がわかりません。「作者が書けなくなって代表作にすがっている」と言う、思いこみの結論にしたいだけとしか思えません。

そして、この投稿者は「観る価値がない」とのことです。残念ですが好き嫌いは誰にでもあります。ですからこの投稿者は、今後観に来なくなるのでしょう。ボクにも好き嫌いはありますから、無理に来てくれとは言いません。

ですが、この投稿者の文章で初めてギンギラを知った方には、どうか、
「この一方的な文章」で結論を出さないでもらえればと思います。

○最後に投稿者へお願いです。
ボクは、自分の価値観を持っているし、是々非々で語ってくれる「信頼する批評家」もいます。お客さまにも支えられています。それでも、正直、この文章には心が痛みました。一方的で、間違いだらけで、思いこみの結論ありきの文章。

あなたはこう書いていますね。

>“ギンギラ太陽’sは西鉄の宣伝別働隊だ”と書いたことがあり、“博多駅周辺が開発
>されればギンギラ太陽’sはJRの宣伝別働隊になるだろう”と毒づいたことがあった。

街の物語ですから、全てが題材です。もちろんエンタメですから、上演時期は、街の開発事情にあわせてタイムリーにしていますよ。その手法が何か問題ですか?胸をはって「福岡という街の宣伝隊だ」と宣言します。そう宣言して上演しています。

何より、投稿者の文章は一方的なだけでなく、投稿者自らが「毒づいた」と書いています。

なぜ毒づく必要があるんでしょう?そこに相手への敬意を感じる事は出来ません。表現者は、真摯な意見はキチンと受け止めると思います。少なくともボクはそうです。たとえ厳しい意見でも、是々非々で言われる分はありがたいです。もう一度書きます。なぜ毒づく必要があるんですか?

ほかの公演への文章も読みましたが、「あえて刺激するような、きつい言葉」を使っているような印象を受けました。もしボクが若手だったら、耐えられなかったかもしれません。手加減しろと言っているのではありません。キチンと調べて、思いこみではない是々非々な文章をお願いしたいです。

ギンギラ太陽’s 主宰 大塚ムネト


★大塚ムネト氏のコメントについてのけんちん・Fさんの意見がmixi日記に書かれましたので、以下に再掲します★

けんちん・Fさんの日記“またまた福岡演劇人の傲慢について・大塚ムネト編”

 先日のギンギラ太陽'sの舞台『博多千年モノ語りシリーズ』について、マイミクののんさんがブログに書いた批評に対する反論を、ギンギラの主宰者・大塚ムネト氏が、演劇ポータルサイトCoRichに投稿している。

福岡演劇の今/負け組を揶揄する冷たい姿勢
http://f-e-now.ciao.jp/
CoRich舞台芸術/負け組を揶揄する冷たい姿勢
http://stage.corich.jp/watch_done_detail.php?watch_id=253508

 長いのでコピペはしません。リンクに当たって読んでください。
 私も舞台や映画の感想を書いて、作者本人から反論されたことは何度となくあるが、まあだいたいにおいて反論にもなってないろくでもないものが殆どである。こんな稚拙な反論をして、かえって創作者としての株を下げることになるんじゃないかと心配してしまうのだが、もともと稚拙だからつまらない反論をしてしまうのである。
 自分が血の汗流し涙を拭かずに作った作品が、簡単に否定されれば激昂するのも心情的には理解はできるし、作者として反論するのも自由ではある。ただ、これが論争に発展した場合、泥仕合になってしまうケースが多々あるのは、どうにもお互いの人格攻撃になりがちなせいで――実際、作品には創作者の人格が表れないはずがないので、言い合えば言い合うほどに人格否定な面が露呈していくことにならざるを得ないのだが――だから私などは逆に思い切って相手を罵倒し侮蔑し、「私の」人格が低劣なことを相手に示して論争を切り上げさせるという手をよく使うんだけれども、よいこはそんな喧嘩腰なことをしてはいけません(笑)。
 でも絡んでくる相手って、建設的な論争をしようなんて気は最初からサラサラないんで、そういう「禁じ手」に出るしか仕方ないんだよね。

 大塚ムネト氏の場合も、一見、冷静に見せかけてはいるけれども、まともに論争する気がないことは熟読していくとすぐに分かる。
 大塚氏がのんさんの文章について、「一方的な思いこみと間違いがある文章」と批判している点を要約するとこんな感じになる。

1、のん「JRの宣伝劇を有料で公演すべきなのか」→大塚「イベント公演だから当然です」
 ※駅前広場で無料の寸劇でやったらいいじゃんってレベルだったけどね。
2、のん「過去作『天神開拓史』では西鉄や岩田屋をよいしょしていた」→大塚「してません」
 ※これは観てないから分からない。
3、のん「今回の上演は観客からの要望」→大塚「ありません」
 ※のんさんは「ななつ星号の冒険」の前回公演が好評だったことを受けての再演だったことを言ってるんじゃ?
4、のん「お世話になったダイエーを揶揄するとは狂っている」→大塚「ダイエーの許可ももらってエンタメ化している。お客もよいしょと思っていないし、狂っているとは言葉の暴力だ」
 ※「よいしょ」の話は2番のところで語っていたことで、この文脈で触れるのはおかしい。それと「言葉の暴力」は創作者が言っちゃったら自縄自縛に陥るよ?
5、のん「新体制になって上田裕子が初出演」→大塚「2度目です。きちんと調べていない」
 ※これは大塚氏の言ってることが正しいんでしょう。でもその程度のミスで怒るほどのことじゃない。
6、のん「大塚ムネト以外にたいした男優がいない」→大塚「私以外の男優も受けている」
 ※役者としてどうかという批評と、受けたか受けないかとは別次元の問題。
7、のん「進行の不手際があった」→大塚「すみません。改善します」
 ※段取りしか改善するところがないというのは三流の演劇人がよく言うこと。
8、のん「新キャラもなく、創作意欲が感じられない」→大塚「新作も書いてるし新キャラも出してます。それに新作を書くも書かないも創作者の自由です」
 ※もちろん自由なんだけど、なら批評するのも観客の自由。
9、のん「また『天神開拓史』をやるのか。もう観なくていいな」→大塚「意義があるからやるので、観たくないなら来なくていいです」
 ※出たよ「来なくていい」発言。今後はそうするね。
10、のん「ギンギラは福岡の『宣伝別働隊だ』と毒づいたことがある」→大塚「胸を張ってそうだと言えます。『毒づく』あなたの方に敬意がありません」

 で、最後のこの台詞だ。
 全体的に大塚氏の反論はただの感情論に過ぎないが、最後のは特に酷い。それって、お客さんに「敬意を持ってみろ」と要求してるってことじゃん? 何様?
 のんさんの勘違いもありはするが、大塚氏も観客に「敬意」を求める傲慢さには全く無自覚だ。
 これも私が何度も書いてることだけど、作品批評は読者や観客が作者に読んでもらいたい、聞いてもらいたいと思って書くものじゃないんだよ。あくまで「受け手同士」のコミュニケーションのためにあるものだ。なのに「最近のディカプリオは太ったな」と書いたらディカプリオが文句付けてくるんじゃないかとか考えてたら感想なんか書けるわけがない。作者に読まれることを前提としていない、というよりは作者はしゃしゃり出てくるな、というのが感想や批評の在り方だ。いちいち作者が出てきて勘違いの思い込みのを訂正して回るって、「誤読は絶対に許さない」ってことだよね? それって、作品批評で一番やっちゃいけないことなんだけど。
 即ち大塚ムネトには、創作とは何かという素養が全くない。「是々非々の批評は受け入れてる」という大塚ムネトの言葉が大嘘だというのがここで露呈してしまっているのである。だから幼稚な人間は下手に観客の感想に絡んだら損だって言ってるのだ。

 そして、大塚氏の反論で一番問題なのは、枝葉末節には絡んでるのに、肝心要の作品批評についてはスルーを決め込んでいることだ。
 のんさんは作品内容について、痛烈にこう批判している。

> 「博多千年まんじゅうの旅」はストーリー展開がスッキリせず歯切れが悪い。対立軸も戦いの状況もどこかあやふやで、話がループしているようなところもある。悪に対抗する力はバラバラで協働しない。ラストでひよこ侍を出して解決してしまうのなら、何のために聖一国師はタイムスリップしてきたの?

 反論するなら、ここでしょうよ。大塚氏に演劇人としての矜持があるのなら、「芝居も何も分かってないやつが偉そうに言うな」の一言くらいあってもよかったろうに、全く触れなかったのは、「図星を刺された」と感じたからだろう。実際、『まんじゅうの旅』は博多銘菓を対立させる意図が全く分からないし(デパートのように勝敗がはっきりしてないしね)、演劇としてはまるでなってない。
 肝心の作品評に対する反論はしないで、どうでもいい部分にだけ絡む大塚氏の姿勢は、「毒づく」以上に卑劣である。

 ただ、大塚氏が言い訳している通り、彼が作る芝居は、基本「博多の宣伝」のための「イベント上演」なのである。くまモンやふなっしーのショーと同じで、そのことを誇りに思っているのだ(かぶりものだしね)。それも「演劇の在り方の一つ」だと言われればその通りである。博多とか天神とかはあくまで題材で、それらを利用した「演劇」を作ろうとしているのではないかと思っていた私やのんさんは、確かに「勘違い」をしていたのだ。なまじ、昔は「そうではないところ」を目指していたように見えていたから、その「思い込み」が固定化してしまっていたのだろう。
 大塚氏が目指すところは、ひよこ侍をかぶりものではなく完全着ぐるみにして、各種イベントに出向させることであろう。ひよこ侍のテーマも作詞作曲して、ひよこダンスやひよこ音頭も作るべきだ。もちろん各種JR電車もかぶりものではなくぬいぐるみにシフトさせ、メディアミックスでマンガ連載も始めればいいと思う。
 冗談ではなく、「博多を宣伝する」とはそういうことなのであって、妖怪ウォッチのようにヒットすることだって決して夢ではない。そうなれば「そんなの演劇じゃない」という批判だって鼻で笑っていられるだろう。大塚氏がのんさんの批判に対して、恥ずかしげもなく噛みついてきたのは、演劇だかイベントショーなんだがよく分からない中途半端な立ち位置にあって「焦って」しまったからなのだろうと思う。

 前にも引用したけど、作品を作る側と批評する側の関係は、藤子・F・不二雄『エスパー魔美』の魔美のパパと剣鋭介の関係が一番正しいのだ。(mixi日記の画像はここには添付しません―薙野)


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